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『思いやり』はくれくれ詐欺の始まり

どうも、そーたです。

今日はコラムを。

一般的な日本人を眺めてみると、「思いやり」っていう言葉大好きですよね。

僕は正直「思いやり」という言葉に対して違和感を抱いていて、好きじゃありません。

この言葉の裏には偽善の意図しか感じないんですよ。

ていうかくれくれ詐欺の始まりです。

というのも、今までの家庭環境と関係があって、親、特に長く関わっている母親はいつも損得勘定で見返りばかり求めてきていました。

何かしてくれたら、こういうときに決まって、「お母さんが〜したんだよ」みたいな恩着せがましいこと言ってくるわけで。

物心がついている頃からか忘れたんですが、今までを振り返ってみるとあぁこのようなことが多かったなと。

まぁ小中高のあたりまではふぅんと聞き流してきたのですが、今となるとあれは何だったんだと。

しかも本人が自分を「お母さん」と言っている時点でそのキャラを作って、本人という身の丈が見えなくなり、偽善の権化にしか見えなくなってくるわけで。

母親は今もまだ自覚してないみたいだけど。

いわゆる『無償の愛』は赤ん坊の頃でお終いでしょうかw

そんなわけで高校時代が家庭関係のフラストレーションのピークで、10年ほど長引いたもので。

特にコミュニケーション方法。

向こうは手話どころが筆談すら使ってくれませんでした。

手話を覚えるの無理とか言い訳もあったのですが、筆談すら使わなかった理由は、聞こえる人の社会に合わせるように矯正する形だったから。

読唇術は一応使えるのですが、限界があって、いつも分かりづらいのです。

たとえば、「たまご」「たばこ」だと口の形が似ているでしょう。

そういうことが会話の中に起こるのが日常茶飯事で、それでも改善の兆しすらなかったのです。

幼稚園児、小学生の頃なら子供はなんの疑いもせずに親と接するので、短期的には親にとって都合がいいかもしれません。

しかし、高校生くらいに成長すると、自我の関係や受験というシーズンもあって多感な時期を迎えるので、親との思考の波長が合わないの当たり前なのです。

親はそういう事情を理解せずにいつまでも幼稚園児小学生の頃と同じ対応を繰り返すので、自然とフラストレーションが高まるわけです。

聞こえない子に聞こえる世界に同化させるために、「思いやり」という形で本人のためになるようなならない偽善なコミュニケーション。

同化は例えて言えば、アメリカ大陸に白人が先住民を侵略して立場をなくし、不毛なところに居住区を追いやり、英語で生活することを強制し、生きる力を奪ったようなものと同じと思っていいでしょう。

ひどいときは、コミュニケーションが上手くいかないことを母親が父親を引っくるんで、僕のせいと責任転嫁で散々なじられましたねぇ。

「思いやり」といっても結局こっちはあの家庭にいて楽しいとは思ったことないので、こっちからしたら親にくれくれ詐欺をやられたようなもんです 笑

そんなわけで、母親が心から大事にしていた(?)僕が赤ん坊の頃のアルバムを全て捨てるという一生後悔するレベルで精神的ダメージを報いの形で与えましたんで。

おかげさまで今は向こうは丸くなって、筆談をようやく使ってくれるようになりましたが。

それから「心を広くしなさい」という言葉も同じで。

本当に心の広い人はそんなこと言わないはずなんですよ 笑

本来、人に強制していうようなもんじゃないんです。

まぁこっちの母親は自分のことを棚にあげていう人なので 苦笑

おかげさまでこっちは性格がひねくれて育ってきました 笑

本当に心の広い人のそばにいれば自然とこっちも心が広くなるし優しくなれるわけなんですよ。

わかりやすいのが、カピバラとその周りの動物でしょうか。

クリックすると引用先にとびます

「心を広くする」のと同じように「思いやり」も誰かに強制されてやるものではなくて、自然となんの損得勘定もなしになんも考えないでするのが自然的な行為なわけです。

そういえばこの季節は啓蟄の時期ですよね。

その最中、雨が降る中だったり降ったあとにヒキガエルがよく道端に飛び込んでくるわけなんですよ。

それをみると、あー車に轢かれるなと思いながら拾って、どこか大丈夫なところに放してくるわけです。

この行為は一見偽善みたいなもんです。

身も蓋もないことを言っちゃえば、道端にヒキガエルが轢かれた姿がゴロゴロ出てくるのは見るに堪えないから。

しかし、一方では、自然の体系からみれば、食物連鎖を守るために遺伝子レベルでプログラムされているのかもしれません。

小さな小さな生き物を大切にすることで、遠く遠くから回って自分に返ってくることですね。

特にミミズ、ミツバチ。

農作物を育てるのに不可欠な存在なわけで。

ミツバチについては全滅すると、人類全滅に繋がると言われてるくらいで。

ただ、そこまでは考えていませんが、誰かに言われてするものではなく、自分がこうしたいからするだけです。

こういう自然な行為は人の世界においても法的な立場で同じような言葉と考え方があるんです。

それは、

障害者に関する法律ですが、サービスや行政、施設などで過剰に負担にならない範囲で障害者が普通に生活できるようにするという考え方です。

動物でなく人に対しては”過剰に負担にならない範囲”が最大のポイントなわけで、合理的に適ったやり方でやった方がウィンウィン関係を作れて、自然と『思いやり』なんてことをする必要がなくなるわけです。

しかも一人当たり生産量がお互い増えるわけですよ。

昔からこういう諺がありますね。

近年では、親切にするのはその人のためにならないという意味で使われることがありますが、本当の意味では、親切がその人のためだけでなく、まわりに巡って自分に良い報いとなって返ってくるという意味ですね。

いやぁ先人の知恵はよく考えられたものです。

(ただし、論語のような上下関係に関する古いしきたりは自然なものではないので論外ですがw 詳しくは先日の記事 道徳は教育?それとも洗脳?にて。)

今もこれからも「思いやり」なんて言葉も関係もなく気持ち良くやって生きていきたいですなー。


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