読書離れは成長のチャンス
どうもそーたです。
面白いトピックを見つけました。
本当に読書離れって悪いのでしょうか。
もし、”読書しなければいけない” のであれば、こういうときは一旦読書をしなくてもいいと思っています。
なぜでしょうか。
読書しないと心が育たないとか、知識量が増えないとか反論したくなるでしょうが、見落としがちなところがたくさんあると思う人が結構多いと思うんですよ。
そもそも、”しなければいけない” という義務感が含まれているから。
当記事にも書いてありましたが、
「読書を押しつけるのは、運動が苦手な人にスポーツを押しつけるのと同じである。楽器が弾けない人に、今すぐ弾けと言っているのと同じだ」
という中学生の意見に近いですね。
読書というのは、趣味のカテゴリーのひとつですよね。
趣味ということは、~したいという自主的な気持ちが芽生えてこそするものなのです。
だからこそ、しなければいけないとなると、義務感で自主的な心が潰れ、長期的には続かないのです。
それから。
現代はマンガも小説も含めて読書のツールが広がっていますよね。
ネットを通してのライトノベルだったり、ブログだったり、Kindleだったり。
そこに流れていて、単に読書離れしたわけではないかもしれません。
定義が狭すぎるだけなんです。
書店が減ったことから誘導しちゃっているので、前提も疑った方がいいです。
ところで、読書って、本当に読むだけで終わっていいのでしょうか。
逆に書くことは?
当記事でいう読書離れっていうのは、読むことだけに集中しちゃっているので。
人の脳みそっていうのは、成長するにつれて変わっていくんですよね。
子供の頃はインプットの達人で、何の工夫をしなくてもそのまま飲み込めるところが多いですよね。
僕も中学時代が暗記のピークで、高卒レベルの漢検2級をたったの2週間とちょいでパスしちゃいましたし。
しかし、高校時代になるといつの間にか小説が読めなくなったのです。
小学生のときはハリポタのような分厚い本を3日間ほど集中してじっくり読み込めたし、ズッコケ三人組のような軽い小説だったら、サラサラ~と1日で終わっちゃっていたんです。
それが、高校時代からはなぜか最後まで読み通す体力がつかなくなったのです。
あと小説でキャラクターの発言や心理描写が分からなくなったのです。
論評本といったロジックが必要とされる本の方がまだ読めた方でしたね。
これは思春期という多感な時期や大学受験を控えての人間関係のストレスだったり、国語の質が変わったり、担当教員との相性が悪かったりとかいろいろ環境が悪かったからかもしれませんが。
一方で、書く力の方が上がった気がしました。
特に英語。
高校時代のある時、宿題でいくつかのトピックからひとつを選んで、そこから自分の主張を英語で書けというのがありました。
読むのが得意でいつも国語でトップを取っていた同級生は2~3行くらいしか全くできていませんでした。
一方、僕は読む力が落ちたのになぜかレポート1枚(400文字くらい)は書けましたね。
18歳選挙権についてどう考えるかをテーマに。
書く前まではそこまで考えていなかったのですが、どんどん書くうちに思考が湧いてきて結果的に書けるようになったのです。
今思うと、成長の段階で、「読む」中心軸から「書く」中心軸へとシフトしていったのかと。
インプット中心からアウトプット中心へと。
あるいは、インプット中心の教育ではなかなか見えてこなかったアップデートとしての『書く』力が可視化されたのかもしれませんが。
このように、中に本が読めない人がいたら、逆に書くことをやってみたらいいですよ。
もし書くことがスラスラできたら、成長のチャンスと思ってもいいです。