道徳は教育?それとも洗脳?
ここ1ヵ月間、森友学園が国有地問題を巡って世間を賑わせていますね。
本当にキナ臭くて困ったもんです。
昨年の夏の参議院選挙は出来レースすぎて、政治について厭世気味になっていたのですが、いまこうしてみると、現政権の基盤に揺らぎが来ているのが伝わってきていますので、静観しているところです。
一方で、森友学園の塚本幼稚園で園児たちが教育勅語を唱っていることでも問題になっていますよね。
学校のハード(敷地)な部分だけでなくソフト(教育の内容)な部分まで。
教育勅語のどこが問題になっているのでしょうか。
詳しくは下のサイトにて覗いてみてください。
これは戦前の軍国主義に戻ることであって、教育基本法に違反状態であり、かつ違憲状態でもあると。
どのような違憲状態かというと、天皇主権国家によって作られた考え方であって、国民主権の現行憲法においては違憲というシンプルなロジックということですね。
では、もうひとつ学校教育においてもうひとつ違憲状態なまま放っとかれているのですが、それは何でしょうか。
これは森友学園に限った話でなく、日本の学校全体においても言えることなのです。
どのようなつながりかというと、グラデーションでゆるやかにつながっていて、たまたま極端で行き過ぎた軍国主義教育が行われているのが森友学園なのです。
それは、道徳です。
もっとも突き詰めていけば、論語というところです。
道徳は、戦前では修身という科目に当たります。
論語そのものはいまではあまり馴染みがないかもしれませんが、あいにくながら、日本人全体の精神の隅々まで染み込まれているのです。
たとえば、「先生」や「先輩」「後輩」。
よく高校生の青春ストーリーの漫画で「◯◯せんぱーい!」とあるじゃないですか。
あれ、気持ち悪いと思いませんか?
また、教員が自分を「先生」というのも、違和感を抱いていませんか。
「先生」が生徒に向かって「謙虚でいなさい」と言うじゃないですか。←本当の意味で謙虚になるのは「先生」の方であって、それができれば、生徒も自然と謙虚になるはずw
教員は、あくまでも公のサービスのスタッフであって、国民主権国家の日本では、国民の下を支える立場のはずです。
それがなぜいつの間にか上の立場になっているのでしょうか。
「先生」とあるように先に生まれたから?
そこに民主主義の欠陥が潜んでおり、現政権のような独裁を生み出す温床にもなっているのです。
まぁ実際、僕が中学時代の担任が典型的か極端な独裁教師で、自分を「神様だ」と言ったり、生徒を一匹二匹と数えたりなど数え切れないほど問題行為をしてきたわけなので。
期末に成績表を渡す時も「ありがとうございます」と生徒に無理矢理言わせて自主性やイニシアチブを奪うとか。
それが国立の学校(出身校は筑波大学附属聾学校といい、国で唯一の国立聾学校です)の教頭に上り詰めてしまったので。
この学校の仕組みは根本的に森友学園とはあんま変わらないです。
また、温床の仕組みのひとつとして、国語や作文などに対する子どもたちの多様な感性が否定され、教員の望む通りの中心軸に据え置いて型枠を嵌めることもありますよね。
日本は何のために戦争に負けて、その反省から教育を一新したでしょうか。
といっても、世間はそれに気が付いていないのが大半と考えられます。
つまり、世間は気づかないまま洗脳されっぱなしということですね。
そこでですが、「教育」と「洗脳」の違いは何でしょうか。
その違いとは、知識や考え方といった知的財産による利益がその子たちに100%届いているかどうかです。
「洗脳」は、もちろんその子たちには利益がなく、むしろ第二者(教員だったりいわゆる毒親だったり)もしくは第三者(省、政権、大企業など)に都合良く行ってしまうってことです。
それがどのように論語につながっているのか、気になりませんか。
この繋がりを知れば、民主主義に則って、現在の教育がどれだけ洗脳になっているか、論破が容易になると考えられます。
繋がりの前に、その論語。
本当に正しくていい話と思っていませんか。
そこらへんにある霊感商売のやり方みたいなもんです。
甘い言葉をかけて、人から汁を啜りとるような。
論語のひとつとして、温故知新っていう言葉ありますよね。
「故き(古き)を温ねて(尋ねて)新しきを知る」
ってやつです。
これ、本当に古いものだけを知って新しいことを知ることができるのでしょうか。
論語がどれだけチープなのか笑ってしまいます。
たとえば、今あるパソコンのネットの仕組みとか、プログラミング、二千年も前の知識だけで作れるのでしょうか。
ブログのサイトを作って分かったのですが、人のイメージで作られるんです。
起業もそう。
ビジネスネタを作るとき、特に何と何を掛け合わせるかを考えるとき。
これは人に教えられて丸呑みするだけではできません。
イメージということは、見るベクトルが未来に向いているわけで、過去に向いていたら、いつまでも新しいものが生まれるわけないんです。
そもそも論語というのは、紀元前に孔子という人が皇帝が天下をコントロールしやすいように作ったものなのです。
あくまでも人々のためなのではなく、天子(その時代の皇帝)のためというわけです。
日本ではその天子が天皇に当たるのですが、道徳を大切にするということは、天皇を大切に崇めよというわけなんです。
つまり道徳もとい論語そのものは違憲ということですね。
森友学園が今やっているように机上の空論じゃなくなりかけていますが、たとえば「先生」や「先輩」がカミカゼみたいに天皇のために死ねと言うようなものなのです。
「先生」や「先輩」のポジションが階級を作り、差別意識も作り出してしまっているのです。
本来法の下の平等で、士農工商や華族といった階級社会を認めてないことになっているんですが、学校は治外法権なんですかね?
道徳が逆に道徳じゃなくなるという。
特にカミカゼで若者のたくさんの命が奪われたことにおいて、あの戦争から日本人の大半は何も学んでいないというわけですね。
まぁ第二次世界大戦に関する歴史教育も杜撰だからなぁ。
というのも、この本を読んだのが大きなきっかけです。
本当に揺さぶられました。
みなさんもぜひ読んでみてください。
読めば今の日本はどれだけおかしいのか、生きづらさを生み出す社会の仕組みの一端がみえてくるはずです。
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また、下のリンク先も。
洗脳論語についてのレビューがあって、一部が読めます。
これで論語の表と裏がちょっと見えるかな。
これで民主主義とは何か少しでも理解が進めればいいですね。