野糞のすゝめ
どうもそーたです。
世の中はいつもながら広いようで、野糞に命をかけているおじさんがいるのです。
ちなみに最近できたばかりのAutoDrawでおうんこ様とハエちゃんを試しに描いてみましたが、どっちも人工知能が反応してくれませんでした 笑
んで、本人の主張曰く、
”もし逮捕されたら、ウンコ闘争・ウンコ裁判を貫きますよ。トイレは使わず、留置場にどんどんウンコをためていく。いけるところまでいくつもりです。
「糞土思想」は現代の地動説。時代が追いついていないので、批判を受けることもあります。ガリレオも裁判にかけられた。私はウンコで革命を起こすつもりですから。”
とな。
そこまで命を懸けているとは見上げたものだと感動しちゃいましたね 笑
もし読者さんたちの中にお食事の前か最中のところがいましたら、このような記事を出すとお米とかお汁とかを吹き出してしまうかもしれませんが、自分としては意識デザインを優先したいのであえて出します 笑
というか意識デザインだからこそ、むしろ食べながらこの記事を読む方がいいのではないでしょうか。
なぜって?
人が食べたものは最終的に辿り着くのがうんこでしょう?
それからいつもお腹の中にあるのだってうんこでしょう。
なのになぜ汚いと思うのでしょうか。
どうしても嫌と思うなら、食べ物を取らないで生きていくといいですね。
あるいはうんこを出さないて一生を過ごすことですね。
まぁどっちにしろ死にますが(ニッコリ
あと、作物の肥やしにも役立ってくれますしね。
うんこは生きていく以上とても欠かせないものなので、むしろ感謝すべき方ではないでしょうか。
そういえば思い出したのですが、人なら誰でも世の中に必ず大嫌いなやついますよね。
同じように僕も大嫌いなやつがいます。
それは、いつまで経ってもやり方ところが意識すら変えようとしない人です。
人だけでなく仕組みも同じか。
そのようなやつを今まではうんこ以下って思ってたんです。
ところが、うんこは本当に世の中に役立ってくれているんですよね。
だとしたら、どうしても救いようがない人や仕組みに対してうんこと比較するのはかわいそうだなと。
自己反省。
これからは救いようもないやつをどう呼べばいいのでしょうかねぇ。
かわいそうなやつと言えばいいのか、単に救いようもないやつと言えばいいのか、または肥やしすらならないやつと言えばいいのでしょうかね 笑
それからうんこと同じように感謝すべき立場が微生物やハエ。
本記事にも書かれてあるように、うんこを分解する立場だそうで。
これは、浄水場に処理を任せているからこそ、いつの間にかそういうポイントが抜けてしまったのでしょうかね。
このポイントの見落とし方、子供たちが本物の魚を見ずに育ったまま、切り身だけをみて生きた魚とは別のものでこっちが魚だと思い込む、そんな感じでしょうか。
それから、野糞。
やってみるといいですよ。
山の中とか森の中ですると気持ちいいです、ほんと。
ちなみにどうでもいい話ですが、うんこだけでなくオナニーもするのも気持ちいいです 笑
雑踏の込んだ都会じゃあいろんなタブーとか視線とかで面倒臭いじゃないですか。
そんなところから一回離れて、自然に還ることだったり、セラピーだったりするのを目的としてそのひとつで野糞をするとか。
僕もネパールの山奥で今まで持っていたトイレットペーパーがなくなって止むを得ずその場でしたのですが、開放感がありましたね。
さらにそこらへんにある大きな葉っぱでお尻を拭くの、何も言えない感触でしたね。
まぁネパールはインドと繋がっていて、紙で拭くのではなくて、左手で水を掬いながら洗い流していく慣習もあって、ペーパーなしですることには抵抗感がなかったのがある意味良かったです。
一方、こうしていると、むしろペーパーでうんこを処理する方が環境を汚しちゃっている感がありました。
この直感が正しかったのか、本記事でも地中に埋めても分解されないそうです。
そりゃあいくらペーパーが木の繊維から作られたといっても、しょせんいろんな薬剤を使っていることもあって人工物だからか。
微生物たちはそんなの好んで食べないだろうなぁ。。。
そんな話の中、人権について考えさせられることがありました。
”なぜそうまでして人権派を批判するのかというと、そもそも「人権」って傲慢だと思うんですね。人権派は人間のことしか考えていない。しかも正義感を持っているでしょう。そこが嫌なんです。もっと自然やほかの生き物に対して謙虚にならないといけない。単に野糞を広めるだけでなく、ウンコを元に人間の傲慢な生き方を改めよう、ということなんです。”
なるほど。
これは社会マイノリティ問題についても言えることでしょうねぇ。
ただ単に偏見・差別が起きたら、すぐ「それは偏見だ」「差別よ」「それは人権の問題です」
といったような言葉をすぐ出しちゃったら意味ありませんよね。
こういうのは最後の最後にとっておく必殺技としておくものなんですよ。
ゲームとかでよくあるけど、必殺技をはなっからバンバン出しちゃったら見切られてカウンターをくらうじゃないですか。
だから、そんな必殺技を出す前になぜ偏見なのか、差別なのか、ロジックを積み重ねて話すプロセスを経て、トドメをさせばいいのです。
といっても、学生時代、障害者問題を巡る卒論調査・制作の過程ですっかり人権の考え方に飲まれたこともあって、人権侵害だとかいちいち過剰に反応していましたが、あとになった今振り返ってみると、痛いなと思っちゃうんですよね。
しかも周囲はそんなに反応しないですしねぇ。
一方、社会マイノリティと会ったことすらない知らないマジョリティの人たちが、誰かが「障害者」と言っただけで「それだと差別だから障がい者にしなさい」といったありきたりな安っぽい正義感を出してくるんですよね。
特に「人として正しいことをしなさい」なんていうのも気持ち悪いです。
定義が曖昧すぎるし、それはお前の単なるエゴでしょうがって。
ほんと、面倒くさいです。
言うのも言われるのも。
人っていうのは不思議なもので、誰かが本当の本当に困っていても助けないのですよ。
助けるときっていうのはね、ある困った人が人生のどこかで波に乗って人気者になったところでワラワラーっとすがりつく感じで見返りを求めるためにするのですよ。
人の本質って面白いですね 笑
では、そこからどのように出発すればいいのでしょうか。
下手な安っぽい正義感を出したら当然人によっては無視したり、よくても共感するだけであとは自分だけで精一杯なので何もしないですよね。
かといって何もしないんだったら、そのままで何も変わらない。
だったら、炎上を起こせばいいんです。
向こうから安っぽい正義感を引っ張り出すんですよ 笑
偽善にまみれた綺麗事で収めるよりは炎上の方がよっぽどいいのではないでしょうか。
安っぽい正義感の先に、本当の意味で共感してくれてさらに強力なサポートしてくれるような人が面白いことやってるなと現れてくるんですよ。
今やってるのがキングコング西山さんのような形かな。
こうすることで、社会が今まで可視化できなかったところが可視化されて、人は動くのではないでしょうか。
わざわざ「人権」を掲げるのをもう通り過ごしちゃって、いつの間にか社会がよりよい方向へ変わるのって素敵じゃないですか。
うーん西山さんに憧れますねぇ〜
え 野糞の伊沢さんは?って?
いやー癖が強くて面白いは面白いですけど、そこまで親身になりたいかどうかはまた別の話ですねぇw