障害者アートのあり方
どうも、そーたです。
昨日、クシノテラス東京トークライブ2 という障害者アートについてのトークイベントを見に行ってきました。
最近、障害者アートに目覚めた僕としては見識を広めるチャンスと。
今回の主演は 櫛野 展正という方。
本人は日本で唯一のアウトサイダー・キュレーターだそうです。
アウトサイダーとは、障害者アーティストを指していて、彼ら彼女らの作品を収集・展示・保存・管理するキュレーターという立場の方です。
で、その主演とトークした相手はゲストの Get in touch 代表の東 ちづるさん。
個人ながら、いつも勝手にお世話になっています 笑
本人も今生きづらさ解消としてまぜこぜの社会を目指すひとつとして障害者アートのキュレーション。
一ヵ月ほど前も、日本財団とタッグを組んでイベントを起こしていました。
今回のトーク内容は、
東ちづるさんが個人的に所持している志村けんのバカ殿の絵をスタートにトーク。
この絵です。
これはいつも東さんの家にいつも飾っているらしいのですが、こんなエピソードが。
この絵を描いた当本人はかなりの志村けんさんが大好きでしょっちゅうこのような絵を描くほどの自閉症を持ったアーティスト。
かなり好きすぎて、それが結果的にラブレターの形で何年も何年もかかってようやく志村けんさんとの邂逅を果たすことができたほど。
その邂逅の前は、何かの大賞でフランスのあのルーブル美術館に招待されたほど認められたそうな。
しかし、本人は、それよりも志村けんさんに会いたいと。
うーん…
個人的には志村けんさんとの邂逅よりもそっちの方がすごいと思うんですけどねぇ。
一方では、好きなものへのこだわりが強くて、世界的な権威うんぬんは興味無いというところが面白いと思いましたね。
それから、彼のお母様の話もあって、東 ちづるさんがその方に大賞おめでとうございますと言ったら、その挨拶の言葉がなんと「すいません、すいません」と。
普通は「ありがとうございます」と言うところが、謝罪の言葉が。
違和感たっぷりですが、その言葉から、お母様と彼の家庭環境や生い立ちといった背景が見えてきて何も言えなかったです。
これが日本社会の姿でもあるのかなと。
その話は一昔前でしょうが、2020年東京パラリンピックオリンピックを目の前にして世間で障害者アートをアピールしている今、表面は変わったとしてもまだ本質的にはあまり変わってないでしょう。
世間と当事者のズレが。
志村けんの話からアールブリュットの話に移ったところでそのズレが話題になりました。
アールブリュットとはなんでしょうか。
これはフランス語でart brut、英語ではアウトサイド アート outside artというんですが、詳細は以下のリンク先から引用してみました。
:既存の芸術システムの「外部」=アウトサイドに位置づけられた人々の手からなり、また、そう認識するに足る独創性を持つと判断された作品。1945年、J・デュビュッフェは精神疾患患者など美術の正規教育を受けていない人々が他者を意識せずに創作した芸術をアール・ブリュット(仏)=「直接的・無垢・生硬な芸術」と呼んで高く評価した。
今、日本の世間では、先ほど書いたように2020年東京オリパラにあたって、国とか都とかが全力を挙げて障害者アートを押し出そうとしているところで、この「障害者アート」というネガティブなワードを他に置き換えようとしたところ、フランス語の「アール・ブリュット」は言葉の響きがカッコいいという理由で世間に打ち出しているそうな。
一方、ヨーロッパでは日本が「アール・ブリュット」という言葉を使っているのを知ると怪訝な反応をするそうで。
まぁ「アール・ブリュット」という言葉でいろいろググってみると、生の技術とか一般の芸術から逸を脱したものと見なしている風潮があるらしいです。
上の記事はスイスのニュースで本当のようです。
しかも、
「まず第一にアール・ブリュットは美術の運動ではない」と語るのは、アール・ブリュットの世界で初めての、また世界最大級の美術館ローザンヌの「アール・ブリュット・コレクション」のサラ・ロンバルディ館長だ。
とまで。
アートはアートなのになぜ美術の運動ではないのだろうか。
その発言の背景には福祉的な要素が絡んでいて、障害者は見世物ではないと過保護的な弊害で市場としてのビジネスが成り立っていないということなんです。
うわーきびしい…
じゃあ今高く評価されているピカソとか耳を切り落としたりピストル自殺したりして精神的に問題のあったと言われているゴッホ、空想がブッ飛んでいるダリなどは?
彼らの生い立ちや画風からしても、世間でいう障害者とはあまり境がないようなもんですよ。
ましてやアートの定義は?
人の好みであれ、暴力とか悲しみとかいろいろ人の心の中で不和だったりカオスだったりするところからその人の表現として生まれたそのものがアートなのだから、アウトサードも生の芸術も関係ないんですけどねぇ。
デザインとアートだって違うんですよ。
前者は、何かを対象として分析してパーツ一つ一つを組み合わせただけのものにすぎなくて、後者はそんなことする必要なく、ただひたすらインスピレーションで生まれてきたものだけ。
表現に限界はないということで。
では、アール・ブリュットとかアウトサイドアート、障害者アートといった言葉をなくすには?
これは障害者が障害者でなくなると同じこと。
まぁ今の時代では、障害者アーティストの認識が低いことから高く評価されず、買ってくれる値段も低いこともあって、これらのような言葉を使わないと認識しづらいのが現状ではないでしょうか。
そのようなアンビバレンス(いわゆる葛藤)から抜け出す方法なんですが、あのトークイベントでこう考えました。
①障害者アーティスト全体をまとめて作品を展示するのではなくて、障害者ひとりひとりを展示すること。
②ひとりひとりが売れるような環境を作り、市場を作るためには、福祉施設から抜け出して、純粋に美術を打ち出す形として、独立した工房やアトリエを打ち出す。会社という形で起業するのもあり。
③一人一人が個人の展示で自分を売り出し、メディアにも上げてもらえるような戦略をとる必要があること。ひいては、障害者アートではなく、現代アートのひとつとしてのコンセプトを認めるパラダイムシフト(その時代の特徴的な考え方)を作り出すこと
障害者アートに触れたばかりの門外漢が言うのもなんですが、始めたばかりだからこそ固定観念のない今だからこそ言えます。
①ですが、最近、草間 彌生展を観に行ってきました。
現場で感じたのですが、もうブッ飛んでいて、障害者アートと感じる隙間がありませんでした。
本人は精神障害を持っているんですが、本当に障害を持っているとは思いません。
そして有名人としてのブランドが成り立っています。
これがヒントです。
②の市場を作ることですが、先日、障害者アーティストの作品を売り出して市場を作っている杉本 志乃さんにお会いしたことがヒントになりました。
③は、去年はダリ展を観に行ってきました。そこで、なぜダリが世間で売れたのか、ビジネスの仕組みがわかりました。
では、2020年東京オリパラの後はどうなるんでしょうか。
終わった後は障害者アートを世間に認識させるインセンティブがなくなるので、持続的に認識してもらうには、パラダイムシフト、つまり東京オリパラのレベルを超えたレベルで時代を作らざるを得ないのです。
そこは障害者健常者関係ないです。
厳しいですが、個人的には障害者アートは面白いと思っているので、心を実質的に豊かにさせるために一生関わり合っていこうと思っています。
ではでは。